2025.07.14 JOURNAL|INTERVIEW & COLUMN

作り手にとって大切なこと | GUEST アートディレクター 葛西薫さん

◎「ウーロン茶の撮影で訪れた中国の曇り空が故郷の室蘭とそっくりだった」とお話されていました。クリエイティブにとって自身の“原風景”がもたらす影響のようなものってあるのでしょうか?

〈葛西さん〉明らかにあると思います。父が新日鉄で働くため、札幌から室蘭の輪西に移り住むのが4歳の頃。伊達の長和町では祖父母が農業を営んでいました。夏や冬の休暇にはいとこたちが集まって遊ぶわけです。馬や豚もいたし、子どもにとっては桃源郷でした。そんな環境で育ったこともあり、都会への憧れを抱くようにもなっていたんでしょうね。数十年後にロケで訪れる中国・瀋陽で感じたのは「外国に来てるのはたしかなんだけどあの頃の北海道に似ている」感覚。当時はまだ戦後の日本のような整備されていない埃っぽさというか、これから豊かになるぞという素朴な空気がありました。路線バスに人が群がっていたり、子どもたちも頬を赤らめてそこらで遊んでいたり。そんな暮らしぶりを見て、僕の子どもの頃の“満たされない”時代の思い出みたいなものを感じたんですね。それまで広告の仕事でアメリカ、フランス、ノルウェーやフィンランドなどにロケに行きましたが、やっぱり“北国”はしっくりくるというか、グッとくるんです。

◎葛西さんはブランディングについてどう考えていますか?

〈葛西さん〉僕は「ブランディング」って言ったことないんです。ブランドは結果。そもそも計画してつくれるものではないと思う。「コーポレート・アイデンティティ」という業界用語がありますが「アイデンティティ」という言葉を知ったときはうれしかったですね。以前、司馬遼太郎さんがアイデンティティを「お里」と訳した。いい言葉だなぁと思いました。これこそ「ブランド」の本当の意味だ。そう感じました。要するに「出自」だとか「成り立ち」みたいなものがアイデンティティになっていく。

〈葛西さん〉六本木ヒルズにオープンしたTORAYA CAFÉ が虎屋との初めての仕事です。その時の森ビルからのオーダーは「今までのとらやじゃない店舗を」というものでしたが、当然、これまでの虎屋のイメージを大切にして取り組みました。その出来栄えを見て、黒川光博社長(現会長)は、海外のデザイナーに依頼したこともあるが、そのデザインがいまひとつ虎屋らしくないと感じたそうで、初めて思っていたことがカタチになって実現した、と思ったそうです。
この仕事の評価を受けて、虎屋グループ全体を見る役割をいただきました。虎屋や和菓子についてはなんの知識もなかったのですが、クリエイティブディレクターとしての初めての会議の席で、「お客さんの気持ちになって、グラフィックデザイナーの視点で感じたこと、思ったことを、どんどん提言していきます」と宣言しました。

画像提供:株式会社虎玄

〈葛西さん〉御殿場に開店することになる「とらや工房」の仕事では、建築家が大切と思い、三重県海の博物館や安曇野ちひろ美術館の建築などで知られる内藤廣さんに会いに行きました。旧知の仲ではなかったので、直接電話をして事務所に訪ねました。 僕は企画書の代わりにあらかじめイメージしていたマンガのようなスケッチを見せました。例えば、農家の縁側で近所の人に自家製の漬け物をご馳走している風景だったり、菓子職人が粉まみれの手でまんじゅうを出してくれるシーン。手描きで表現することで、聞いてくれる相手に想像できる余地や意見を言える余地が生まれる。内藤さんがこの絵をとても喜んでくれて、スケッチはそのまま虎屋の社長プレゼンテーションでも使用しました。僕にとって企画書は自分で喋りながら相手と一緒に考えるツールです。企画書を囲んでお互いに意見を出し合うことで案件の輪郭がハッキリしてくるんですね。そういう意味では僕のプレゼンテーションは「やわやわ」です。だから競合なんて勝ったことないし、もう競合にはしばらく参加してないですね。こっちも迷ってるわけです。「赤もあるし青もあるよ」とアイデアを出して探りながらクライアントと一緒に結論を出す。担当者も経営者も2、3案を見ながら、共に考えるプロセスを喜んでくれます。例えるなら、向き合って話すのではなく、隣に座って同じ方向に向かって一緒になって苦労していく。そんな感覚でしょうか。

画像提供:株式会社サン・アド
画像提供:株式会社サン・アド

◎デザインの業界を選んだルーツを教えてください。

〈葛西さん〉中学生時代は「理科工作クラブ」でした。父が元は大工だったので、家にはその道具がたくさんありました。木材をいちから削り、船やトレーラーを作って遊んでいました。模型工作が大好きでエンジニア気質だった僕は地元の「室蘭工業大学もいいなぁ」とぼんやり過ごしていた。ところが高2 の時に友達の紹介でレタリングの通信教育を受けることに。これが人生を変えました。活字や映画のタイトルをつくったりしてとにかく文字が好きになる。進路相談では映画の看板づくりに関われそうな札幌に行きたいと話したら、先生に「東京へ行け」と言われた。通信講座の制作物をポートフォリオにまとめ面接を受け、東京の印刷会社に入社することができました。印刷工ではなく版下部門に採用され、もう死ぬほどチラシをつくりましたよ。入社当初の1 年間はチラシの裏面のモノクロ面しか作らせてもらえませんでした。はじめての4色は2年目、「anan」の創刊の頃で、デザインの参考にもなりました。コピーライターなんていないので、コピーも書くし、絵も描く。もちろんタイトルのレタリングも。

◎その印刷会社を辞めてデザイン会社に転職されるんですよね?

〈葛西さん〉チラシをずっとやるのは本意ではなく、オリジナルのデザインでごはんを食べていきたいと思っていました。とはいえ手を動かすのは性に合っている。チラシの版下作成を通じて、無駄を排除して効率よく組み立てること、手作業で精度を上げることをカラダでおぼえた。下積み時代は技術を身につける、まさに手に職をつけて「一人前とは何か」を考える時期だと思います。それは令和の今も変わらないですよね。印刷会社の後はデザイン会社に行きました。中小企業のパンフレットにはじまり、西武百貨店のデパ地下のPOP制作をするなど。やがて広告の仕事に携わりはじめる。

〈葛西さん〉もう10年以上、室蘭の「撮りフェス」の審査員をしています。きっかけは僕にレタリング講座を教えてくれた友人の同級生のつながり。その息子さんが東京の広告制作会社にいて、寂しくなってしまった故郷の室蘭を応援したいと、僕にオファーをくれたんです。その気概が頼もしいし、僕も関われることをうれしく思います。2017 年に札幌市で開催された冬季アジア大会ではメダルのデザインもお手伝いしました。

◎広告においてデザイナーとコピーライターは夫婦のようなものと言われます。葛西さんが今まで一緒に仕事をしてきて最も印象的なコピーライターはどなたですか?

〈葛西さん〉どのコピーライターも印象的でした。その最初に出会った仲畑貴志さんですね。サン・アドでは1年先輩。歳は2つ上。まだ無名時代。でも若い内から自信満々でしたね。仲畑さんのコピーライティングってなんていうか“農作業”みたいな感じがします。難しい言葉は使わず、「ゴロン」とした感じの生きてる言葉を使う。あとは彼がよく言っている「早い話、◯◯◯」という考え方でコピーを発想するやり方。主語と述語の距離が近いから言葉が「率直」になるんですね。コピーを作るのも早かったです。クライアントを訪ねたオリエンの帰り道でもうコピー案ができちゃうなんてことも珍しくありませんでした。特に印象に残ってるのはSONYの「H・AIR」(ヘアー)というヘッドホンの「ほんとに今まで重かった。軽いヘッドホン『ヘアー」世界同時発売。」というコピー。商品を捉えるチカラがあり、結論に向かって一直線でスピード感がある。ちなみに「H・AIR」というネーミングは僕の案が採用されました。

PROFILE
葛西 薫|Kaoru Kasai
アートディレクター
1949年札幌生まれ。文華印刷(株) 、(株)大谷デザイン研究所を経て、1973年 (株) サン・アド入社。サントリー、ユナイテッドアローズ、虎屋などの広告制作およびアートディレクションのほか、CI計画、パッケージデザイン、装丁など活動は多岐。近作に、TAMIYA PLAMODEL FACTORY TOKYOのCI、阪本順治監督『せかいのおきく』の映画ポスター、石川直樹写真集「K2」(小学館)、坂元裕二著『片想い世界』(リトルモア)の装丁などがある。著書に『図録 葛西薫1968』(ADP) など。

 

撮影:鈴木 千佳



 

[ヨリヨクとは]
コピーライター職を軸足に活動するインプロバイドのクリエイティブディレクター池端宏介が綴るコラム&インタビュー企画。企画名は社名のIMPROVIDE(「より良くする」という意味の造語)に由来する。テーマは「コトバ」「デザイン」「ブランディング」「マーケティング」「地域のクリエイティブ」など。独自の視点と経験から「よりよくする」を掘り下げる。

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「敷居の低いブランディングって何?講座」っていったい何?

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